映画人・水谷豊

映画人・水谷豊を紐解く『轢き逃げ −最高の最悪な日−』徹底分析

目次

  1. 自分が気になっていることを書いた
  2. “違う選択をしてしまった”ということはテーマのひとつ
  3. どうすれば俳優はやりやすいのか?ということを考える
  4. 常にもうひとりの自分に見られているような感覚がある
  5. 父親が復讐するシーンを作っていた
  6. 過ちに対して1回はチャンスを与えてもいいのではないか?
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自分が気になっていることを書いた

『監督というのは正直ですよね。その人の正直な部分が作品に投影されている。ということは、その人の中身が全部“見られている”ということなんですね。俳優にもそういうところがありますが、結局、芝居することには限界がある。その人からこぼれ出てくるものがあるから、それが個性になる。その人、そのものです。芝居しきれない部分が、実は個性なんですよ。そう思うと、監督というものは、人に対して、或いは、社会に対して、どのようなことを思っているのかを作品の中で出してゆかねばならない。全てを観られているという感覚です。僕がこれまで心を動かされてきた映画は、全部「正直だな」と感じたものばかりでした。』

監督と俳優について、水谷豊が語った言葉だ。水谷豊と共に生きてきた世代の人々からすると、水谷はいつの時代も主役を演じてきたスター俳優なのかも知れない。しかし、2017年に『TAP -THE LAST SHOW-』(17)で初監督に挑んで以降は、“映画監督”としての水谷豊という姿を見続けることになるだろう。その覚悟のようなものが、前述の言葉にはある。そんな水谷にとって監督第二作目となる『轢き逃げ –最高の最悪な日-』(19)では脚本も手掛け、自身は脇に回って轢き逃げ事件被害者の父親も演じている。昨今、原作ものや続編のような作品が日本映画に多いと揶揄される中で、オリジナル脚本を監督することは難しいとされている。ありとあらゆる選択肢がある中で「水谷監督は、なぜこの題材を選んだのだろう?」というのが、僕の最初の感想だった。この企画が水谷監督のところへ来た経緯とは、どのようなものだったのだろう。

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』

『1本目の監督作品『TAP -THE LAST SHOW-』が終わって、「そろそろ2本目のことを」という話になったんです。映画というものは、世の中のあらゆるものを描くわけです。文学であったり、音楽だったり、コメディであったり、映画には色んな映画のジャンルもある。そんな中で、あるプロデューサーが「水谷さんの考える“サスペンス”を観てみたい」と仰った。それで「じゃあ、ちょっと考えてみましょうか」ということになったんです。その2日後、「嫉妬をテーマにしよう」というイメージが生まれました。「嫉妬」と言っても、より良くなろうとする人と、何かに取り憑かれて堕ちてゆく人とがいますよね。そんなことを考えていたら、この映画のシチュエーションが“ふっ”と降りてきたんです。』

『轢き逃げ-最高の最悪な日-』は、様々な人物の多層的な物語が積み重なることで、多角的な視点を持ち合わせているのが特徴だ。

『こういうことが起きると、加害者と被害者が生まれます。そして事件ですから、それにまつわる警察や、勤めている会社の人なども出てくる。例えば、誰かがここで何かをしているという時、同じ時間には他の人も何かをやっているはずですよね。僕はそのことが気になり始めるんです。だから「自分が気になることを書いていった」ということかも知れません。』

この映画は犯罪を犯した側が主人公。つまり、被害者側が脇に回わるという構成になっている。“犯罪映画”の類いには、もちろん犯罪者を主人公にした作品が存在する。一方で、警察や私立探偵のような立場の人間が事件を解明するという、“謎解き”を描いた作品の人気は相変わらず高い。そのような中で、水谷監督が犯罪者側の心理を描こうとしたのはなぜなのだろう。

『当然、こんなことが起きるとは誰も予想などしません。起こそうとも思っていませんよね。そういうことに遭遇した場合に、どんな世界へ行ってしまうのか? 同じように、被害者の側だって「一生こんなことが起きるとは思わなかった」となるわけです。そういうことが起きた時に「人はどうなるのだろう?」という興味が、僕にはありました。もうひとつ「刑事や警察が解決するドラマにはしたくなかった」ということもあります。それで、なるべく早い段階で、あの若いふたりには捕まってもらって(笑)そこから“人間ドラマ”が始まるようにしました。興味があるのは「こんなことが起きてしまった」ということと、「起きたことによって人はどうなるのか?」ということです。』

副題の“最高の最悪な日”からは、犯罪を犯した若者たちの<自己中心的>なニュアンスが読み取れる。この副題は、水谷豊監督自身が付けたものなのだという。

『この言葉は、秀一(中山麻聖)に当てたんです。でもこれって、一般的にもそうなんですよ。最高と最悪って、とてもかけ離れたような意味合いだけれど、実は隣り合わせになっている。彼は人生の絶頂期を迎えようとしていたところ、こんなことが起きてしまう。時間にすれば、数秒も無い僅かな時間かも知れないけれど、そこで最高と最悪を経験するんですね。』

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』
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“違う選択をしてしまった”ということは
テーマのひとつ

冒頭の場面は、本来であれば幸せへ向かってゆく場面であるはずなのに、秀一と輝(石田法嗣)は、人生の転落を味わってしまうことになる。このロケは兵庫県神戸市で行われているが、作品内ではあえて“神戸”とは謳わず、“神倉”という別の街の名前になっている。そして、脚本にも水谷監督は<ある地方都市>とだけ記してある。

『神戸はですね、<ある地方都市>として僕がイメージしていた場所でした。ある日、ロケ地について実際に撮影する側の意見も聞きたくて、撮影監督の会田正裕さんに電話でイメージを伝えて相談したら「神戸はどうですか?」と仰ったんです。僕は『少年H』(13)でも神戸に行っていますし、あのように山と海のあるロケーションですから「神戸にしましょう」ということになったんですね。ところが、神戸には神戸の言葉がある。俳優全員が神戸の言葉で台詞を言うのは、僕自身が俳優である経験上、無理だろうと思ったんです。それで、神戸の街には申し訳ないのですが、言葉を使わないかわりに、神戸の“神”という字を地名に残して“神倉市”という名前にしたんです。でも結局、誰が見ても神戸ってわかりますよね(笑)。』

“アノニマスな街”というアイディアによって、身近な街で起こりうることであり、誰しもが遭遇するかも知れないことでもある、と感じさせるような新たな要素が生まれている。

『とにかく僕が考えたのは、“どこでも起こる可能性がある”ということです。人生そのものが選択の連続ですよね。そして、無意識に選んでいることも多い。だから「なぜ、あんな選択をしたんだろう?」ということは、後になって思うものです。そこを、秀一と輝には背負って欲しかった。「違う選択をしてしまった」ということは、テーマのひとつなんです。』

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』

誰しも「あの時、ああしていれば」という経験があるだろう。秀一と輝は、ある程度の社会経験を経た若者であるからこそ「自分たちは大丈夫」という“おごり”がある点がポイント。事件を起こすふたり、婚約者の女性、若い刑事、彼らを演じるのは、実際に30代前後である俳優たち。中山麻聖、石田法嗣、小林涼子、毎熊克哉、この4人は、まだ色のついていない、実力はあるけれど世間ではまだイメージの固まっていない俳優だ。オーディションなどで彼らを選んだポイントはどのような点だったのだろう。

『最終的には僕が決めなければならないんです。それで皆さんには、オーディションの場で会わないようにしていました。会うと、違う感情が動いてしまいそうで…。例えば、其々のこれまで俳優になるまでの道のりとか、家族のことなどを聞いたりすると、いろいろ想像しちゃうんです(笑)。だから、だいぶん絞られた段階で、まずオーディションのビデオを見せてもらいました。最後に決める理由には、明確なものがありません。「ああ、いけるな」という、それだけです。小林さん、毎熊くんに関しては、(Mr.Childrenの)ミュージックビデオや作品を見せてもらったんです。それを見た時に「ああ、いけるな」と(笑)。』

結婚式場での打合わせ場面。中山、石田、小林の3人が初めて顔を合わせる場面だ。にもかかわらず、台詞では説明されない三人の関係性を何となく推し量ることができる。不思議と彼らの関係性が台詞を介すること無く見えてくるのだ。

『芝居をしているところを想像するんです。ひとつは、あのシーンで3人が集まった時に、観ている側には一挙に三人の関係をわかってもらいたかったということは、確かにあります。だから、あそこで三人の関係を明かしておこうと思っていました。』

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どうすれば俳優はやりやすいのか?
ということを考える

かつて水谷豊は、長谷川和彦監督の『青春の殺人者』(76)に主演。20代半ばの彼に大きな影響を与えた作品だ。今なおオールタイムベストテンの上位にランキングされるこの名作で、水谷は犯罪を犯す若者を演じていた。この作品を製作したATG(日本アート・シアター・ギルド)は、1960年代から1980年代にかけて意欲的な低予算映画を手掛けた映画会社。時を経て、自身が映画を作る側になって監督した『轢き逃げ –最高で最悪の日-』は、まるでATGが製作したかのような印象がある。そこに若い俳優を配することで、自身が若い時代に経験したことを、今の世代にも“継承”させたいという思いがあったのではないだろうか。『青春の殺人者』の主人公がそうであったように、誰もが社会のレールの上で生活できるわけではない。水谷豊が監督した二作品では「社会からこぼれてしまっても大丈夫」という厳しくも優しい視線で物事を見ているような気がするのだ。

『普段からそうですね。人は、何か素晴らしいことがあって脚光を浴びます。そこにはスポットライトが当たるけれど、いったん堕ちてしまうと誰も見向きもしません。実は、そこから「どう這い上がってゆくのか?」という“ドラマ”が生まれるんです。普通に社会生活をしていても、時として、社会生活からこぼれてしまう人たちがいますよね。その時に「どうするんだろう?」ということに、僕は興味があるんです。』

そう考えると、今回の『轢き逃げ –最高の最悪の日-』と前作『TAP –THE LAST SHOW-』は、ジャンルが全く異なるものの「社会の底辺から這い上がろうとする姿」という点で、密接に繋がっていることが窺える。

『確かに、おっしゃる通りですね。僕、「傷だらけの天使」だと不良っぽい役だったでしょう? その時はPTAに嫌われる3本の指に入っていたんです。「ずいぶん嫌われているなあ」って。で、「熱中時代」をやりましたでしょう? その時は好感度で1位になったことがあるんです。でも僕の中では、同じ事をやっているつもりなんですよ。それなのに、嫌われる人になったり、好かれる人になったり(笑)、これが不思議だったんです。だけど、今言われて「なるほど」と思ったのは、通じるのは当然なんですよね。同じ自分がやっていることなんだから。』

クリント・イーストウッドがそうであるように、水谷監督自身が<俳優>であるからこそ、俳優側に寄り添った演出ができるという点は特徴のひとつだ。

『その都度、そのシーンには辿り着きたい“世界”があります。「そこへ辿り着くにはどうすればいいのか?」ということは常に考えますね。撮影というのは時間にも限りがあるので、いつまでも同じようにやっているわけにはいかない。ただ、俳優をずっとやってきていると、「どうすれば俳優はやりやすいだろうか?」ということは、俳優側として現場で考えていたいと思っています。』

メイキング映像を見せて頂いた時、興味深い演出があった。通常、撮影現場では、カメラが回り「ヨーイ、スタート!」の合図でカチンコを入れ、俳優の演技が始まる。ところが水谷監督は、まず俳優に演技を始めさせ、カメラを回し、暫くしてから「ヨーイ、スタート」と声をかけていたのだ。

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』

『カチンコが入ると、「気合いが入る」という俳優さんが昔からいらっしゃるんですが、僕の映画では気合いを入れてもらっては困るんです。カチンコは、気合いを抜く合図なんです。』

この演出は、編集で使う前後の演技も撮影することで、俳優の演技のテンションが圴一になるような効果が生まれているように感じさせた。俳優の気持ちに寄り添ったこの演出もまた、水谷監督自身が<俳優>であるからこそではないか。さらにメイキングを見ると、水谷監督が俳優たちの前で自ら台詞を言ってみせている姿を確認できる。ともすれば、水谷さんの口調やスピードに俳優たちが引っ張られてしまう気もする。

『俳優の場合は、ホン(脚本)を読んで表現するんだけれど、実は、監督が要求することや意味するところに辿り着けないことが結構あるんです。もちろんそれを引き出してくれる監督もいるし、任されっ放しで辿り着けないままのことだってある。それは、これまで俳優としてたくさん見てきました。僕としては、辿り着きたい“世界”が明確にあるので、彼らを導くようなことを無意識のうちにやっているかもしれないですね。』

監督が俳優の心理を理解して演出すれば、俳優の側から引き出されるものも異なってくるのではないだろうか。

『俳優というのは、いつも不安なんです。これが正しいのかどうなのか、自分は大丈夫なのか、と常に不安を抱えています。そんな不安な仕事であることを僕は判っているので、俳優が不安にならないように、不安に感じなくてもいいような状態を作ろうと、いつも心掛けています。』

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』
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常にもうひとりの自分に見られているような
感覚がある

ドローンによるオープニングのワンシーンワンカットの長回しは、トリッキーなショットで、本作に強いインパクトを与えている理由のひとつ。

『まず、「街がどんなところなのかを見せたい」ということがありました。それで、撮影監督の会田さんに「こんなことできる?」と聞いたのが、あのワンシーンワンカットなんです。すると「ドローンを使えば出来ます」と会田さんは仰った。ただ、住宅地ではドローンを飛ばせないんです。あのシーン、小さな川が通っていますよね。実は、河川の上ならドローンを飛ばせるんです。だからよく観ると、カメラは輝に寄ったり振ったりしているのですが、ドローンは一切河川から出ていないんです。ドローンのタイミングは難しくて、ドローンのスピードと輝が走ってくる位置とスピードを合わせなければなりませんでしたね。』

アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(60)のオープニングも本作と同じように、街の全景からホテルの一室へとカメラが徐々に迫ってゆく。技術的な問題で『サイコ』ではカットを割っているが、実はワンカットで撮影したかったことをヒッチコック自身が述懐している。また、80年代の街を舞台にした『シャーキーズ・マシーン』(81)や『800万の死にざま』(86)のような犯罪映画のオープニングでも、街の全景から徐々にひとつの被写体にカメラが迫ってゆく過程をワンカットで見せていた。この時代、ヘリコプターによる空撮が可能になったのだが、『シャーキーズ・マシーン』のバート・レイノルズもまた、俳優であり監督でもあった人物だ。そういう意味で『轢き逃げ –最高で最悪な日-』は、“犯罪映画”という雛型の中で「街の遠景からひとりの人物に寄ってゆく」というショットを踏襲しているように見える。そして、これらのショットには“神的な視点”も感じさせるのだ。

『必ず、“もうひとりの自分”っているじゃないですか。芝居をしていてもそうなんです。確実に“もうひとりの自分”がいて、彼が物事を判断しているんですね。例えば、「さっきよりももう少し早く喋った方がいい」とか「怒鳴り過ぎているからもう少し小さな声で」とか(笑、)自分では誰かから指示されているような感覚なんです。だから常に“もうひとりの自分”のようなものが、上から見ている感じがありますね。』

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』

結婚式の前日、秀一と輝が遊んでいる場面は、<マジックアワー>に撮影されている。このことは、彼らふたりに残された時間が“限られている”ことを示唆しているようにも見える。

『あれは、あえてあの時間帯に撮影しました。「シルエットも含めて、映像が美しくなるのがあの時間なんです」と会田さんが仰った。しかも物語を追ってゆくと、ちょうどあの時間帯にもなるんですね。あのシーンは、ふたりが何もかも忘れて騒ごうという躁状態で、その後の展開で躁状態と鬱状態を繰り返す、という暗示を短い時間で表現したかったのです。』

輝は秀一に対して羨望の眼差しだけでなく、近親憎悪のようなものも向けているのではないだろうか。

『ほんとうに、そうだと思いますよ。輝というのは、みんなに相手にされないような、あんな性格ですからね。秀一というのは、そこを救ってくれた相手でもある。自分にとって一番近い友だちであるはずですよね。いつしかそれが、憎しみへと変わるのは、「近親憎悪に近い感情を持ってしまったのだろうな」と思ってしまいます。』

この歪な関係は、まるで『太陽がいっぱい』(60)における、アラン・ドロンとモーリス・ロネの関係のようで、早苗はヒロインを演じたマリー・ラフォレのようにも見えてくる。まさに『太陽がいっぱい』も、金持ちの友人に嫉妬したアラン・ドロンが、犯罪を犯してゆくという物語だった。

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父親が復讐するシーンを作っていた

『轢き逃げ –最高の最悪の日-』では、<復讐>は是か否かということも問われている。例えば、アメコミのヒーロー物においても、近年は<復讐は更なる復讐を生む>という考え方を描いた作品が以前より増えている傾向にある。水谷監督自身は、どのように考えているのだろう。

『実はね、脚本の段階で、父親がもうひとつ復讐をするというシーンを作っていました。父親は、犯罪者になってしまうわけです。それで、今回の映画で描いたようなラストと、復讐をしてしまうという展開と、どちらなのか? ということを暫く考えました。娘が殺されたことを理由に復讐をしてしまったら、これはもう、良い悪いの世界ではなくなってしまいますよね。この映画は「未来に向かいたい」と思っていたので、復讐は邪魔になると思ってやめたんです。でも、実はそこまで考えていました。恐いのは、個人の感情がコントロールできないところまで持っていかれてしまうところですよね。理性すら通用しなくなる。人が人とは言えなくなるようなことになっては、いけないと思うんです。』

つまり、この選択自体が水谷監督の意思表明であるように思える。かつて主演した『幸福』(81)のラストでは、復讐しようとする同寮の刑事を止めようとする刑事役を水谷豊は演じていた。

『あの映画で復讐しようとする男の気持ちも判るなあと思いながらも、今回はやめました。』

登場人物同士の相関関係やバックグラウンドは、映画の中で明確に描かれていない。しかし、台詞の端々にある情報から、観客が自然と情報と情報を繋ぎ合わせて、彼らのバックグラウンドを推し量る、という構成も『轢き逃げ –最高の最悪の日-』の特徴だ。観客に情報の解釈を委ねる、或いは、情報の処理を委ねるのは、どこまで意図されたことなのだろうか。

『“想像する楽しみ”というのが映画にはある。全部を喋ってしまうよりは、「こんなことが裏ではあるのではないか?」と想像すること自体が楽しみになるんです。それに、誰かが自分のことを喋ってくれた方が楽な時って誰にでもあるでしょう? 映画の中で、それが自然にそうなっているんじゃないかな。』

この映画では暗部が映えるように、HDR(HIGH DYNAMIC RANGE)の映像技術が採用されている。映像において陰影を重視することは『TAP THE LAST SHOW--』でも成されていたが、陰影を重視することで、観客は「何が映っているのだろう?」と画面を注視するようになる。“観よう”とする意識が高まるのだ。

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』

『『TAP –THE LAST SHOW-』の時も今回もそうなんですが、画のタッチや、画に対する想いに関しては、撮影監督と話をします。「どんな映像世界が、この映画にはぴったりなのか?」そんな話をするんです。もちろん後からの処理でできることもありますが、基本的には現場で作ってゆきます。すると脚本を読んだ撮影監督から「こんなことができます」「こんな感じでどうでしょう」と提案がやってくる。僕はそれを判断してゆくだけです。人生というものが、“光と影”ですから、陰影に関しては自然とそうなりましたね。』

このことは、映画の中では直接描かれていない情報を観客自身が抽出してゆくことと、画面に対して観客が注視することとが合致しているように感じさせる。1940年代に登場した<フィルム・ノワール>と呼ばれる犯罪映画群は、モノクロ映画の特徴を活かした陰影を夜景のコントラストで表現。暗めの画調というトーンは、犯罪を描くことに適っているのだ。

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過ちに対して1回はチャンスを
与えてもいいのではないか?

『轢き逃げ –最高の最悪な日-』に対しては、いずれ「共感できない」という感想も出てくるだろう。だが映画の中には、意図的に“共感”しにくい物語を構築している作品もある。本作も主人公は犯罪者だ。そんな中で、早苗というキャラクターは世間知らずのお嬢様で、本来、事件とは一番遠い位置にいる存在。ある意味で、観客の立場に一番近いキャラクターであるといえる。いっけん無垢に見える早苗だが、映画の前半から後半にかけて、強い意志を持った女性に変化している。彼女は“共感できない”主人公のことを、理解しようとするキャラクターである点がポイントだ。

『早苗というのは汚れていない、大変純粋であるというキャラクターです。純粋な彼女が翻弄されるわけですから、どうしていいかなんて判るはずありません。だから修一から「別れよう」と言われたら「はい」としか返事ができない。言葉では「はい」と言っているのだけれども、結局、待つことを決心しますよね。彼女の芯は、あそこだと思うんです。葛藤はあるけれど、とても正直に生きている人にしたかったということがあります。修一にとって、最後の救いは早苗でしょう。この映画は、「赦し合って未来に向かいたい」という物語なんです。人は過ちを犯すけれども「その過ちに対して1回はチャンスを与えてもいいのではないか?」ということなんです。もちろん事にもよりますけれどね。』

映画冒頭の早苗と映画終盤の早苗は、どちらも新たな人生を踏み出すという点で対比になっている。外見的な変化はないにも関わらず、早苗の内面が成長している事は、観客なら誰でも理解できる。それが映画の面白いところだ。この映画では、登場人物が“手”を添えるという行為が何度か映し出される。例えば、娘が事故に遭った坂道を父親が触れる、早苗が接見室でガラスに触れる、など、<隔絶>の象徴のように描かれている。ところが映画のラストでは、手と手が触れるという姿が映し出されている。

『それぞれの場面は、意識して演出したことではありません。でも“触れる”いうのはとても大切な事です。日常の習慣として、あまり触れることのない日本人だからこそ、印象的に残るわけです。最後は、あそこで救いたかった。言葉だけではなくて、という想いが僕にはありました。』

それまで、物語の中心は男たちの諍いであったのに対して、最後は女性が和解の象徴として登場する。

映画『轢き逃げ −最高の最悪な日−』

『最後は、加害者側と被害者側のふたりで終わろうということは決めていたんです。やっぱり、女性には適わないところがあるということですかね。男では「ああはなれないな」と思いますね。女性なら、本当にそうなっていける。男はカッコつけてならできるけど、どうでしょう、本当にそういうことができるかというと、男ではなかなか届かない気がします。』

世界では、国籍や人種、信じる宗教や支持する政治思想など、その人の背景を理由に、差別をしたり、排斥しようとする<不寛容>な動きが顕著になっている。どこか息苦しい世の中になっていると感じている人は少なくないはずだ。大きな話になってしまうが、『轢き逃げ –最高の最悪な日-』のラストで描かれている“赦し”は、そのことに対するある種の回答でもあるように思える。本来であれば重なることのないふたりが邂逅し、赦し合うような姿を見せることで、単に“轢き逃げ事件”を描いただけの映画には見えなくなるのだ。早苗と時山の妻・千鶴子(檀ふみ)が座るカフェ。絶景ではあるが、考えようによっては奈落のようでもある。しかし、その遥か向こうには、海原が広がっているのが見える。その景色は「さらに未来がある」という希望を想起させるのだ。事故で亡くなった千鶴子の娘の名前は<望>、その名が希望や展望の<望>であることは、単なる偶然ではない。

映画評論家・松崎健夫

©2019映画「轢き逃げ」製作委員会